戻る

びーふらっと情報 第12号
     

 

年月の経つ早さを痛感しておりますが、

2005年1月17日阪神大震災から10年目の朝を迎えました。

震災の日から10年、毎年16日から17日の朝にかけては

緊張感が身体中に走って眠れませんでした。

これも後遺症なのでしょうか?

震災直後の吐血から復活、池田から泉佐野へ移転オープン、

池田での10年間は楽しかった事だけが想い出として残って居ますが、

泉佐野に来てからの10年間は日本国内の問題では治まらず、

世界の平和までが損なわれ、

そこへ人間達の心ない言動の積み重ねが環境破壊を招き

世界規模で災害による甚大な被害が顕著になり、

やはり世界平和の継続は50年周期だと云う

私の持論を地で行く事になり、不気味な時代に突入して居ります。

来る4月には数年前から云われ続けているペイオフが

本当に実施されるであろう事も一大事です。

以前から云い続けて来た段階の世代の方々のリタイア時期がもう2〜3年先に

迫って来ました。

日本人口の5%にあたる700万人が企業から卒業し、同時に日本企業から優秀な

技術が消耗品の如くポストを失うのです。

その後、後に続く技術者が育っていれば問題は無いのですが、空白が出来るのは

目に見えて居ます。日本の産業・政治に関わる国内外の諸問題、やはり変わり行く

時代を数十年、平和は続かないと云うのが実感です。

4世代が住む家族の中で育った私は目上の人に対する返事は、

いつの時も「ハイ!」が当たり前でした。

朝、目覚めて歯磨き、洗顔、仏壇へのお参り、食事の前には「いただきます」

「ごちそうさまでした」

食後、必ず廊下の拭き掃除、玄関周りの掃き掃除、そして冷たい手を焚き火で

温めて登校するのが決りでした。

或る日、学校から先生が「失礼ですが池田さんはお母さんが違われるのでしょうか?」と、

問い合わせにお見えになったと云うエピソードがある位、

厳しいしつけだったのでしょう。

数十年前の手の冷たさと同じ冷たさで、今もはっきり覚えて居ます。

昔の冬は今とは比較にならない冷たさでした。然しそんな事は当たり前の事で

取り立てて云う事でもない事でした。

家の中でも学校でもどんな場面でも目上の人に対しては必ず敬語を使う、

こんな常識は崩れる事のないものだと信じてやまない私でした。

「三つ子の魂百までも」と云う言葉は生きて居ます。

子供の教育は母親の胎内に命が宿った時から始まって居ます。

家庭が家人が鑑になって子供は育ちます。

就学の時期が来ると、

学校にも協力をお願いしますが、

家庭における教育がベースになります。

学校に任せる事なく学校側と親との連動体での教育体制が必要です。

子供の事は内と外、両面からの目が必要です。

両面の力が子供を育てている事を忘れない事です。

教育論を考えている時もやはり5時46分の事が頭から離れません。

戦後から今まで生きて来て、心の支えになる言葉は曾祖母から教えられた

“何時の時も誇りを持って生きる”と云う事でした。

恵まれた家に生まれて、行き届いた教育を受けて育って平和に暮らしていても、

良い事も悪い事も長続きはしないと実感を持って経験するのが人生だと思います。

生涯の中で幸せ半分、不幸せ半分と云います。

ママはきっと苦労が足りないからもう少し苦労をする必要があるよ!との

神様の思し召しだろうと思って居ます。

震災10周年を機に折角道を開いて下さった方々に改めて感謝の気持ちを

抱きつつ、ここまで来る事が出来た原動力になって下さった方々に、

更に感謝の心を少しずつ形に表明出来る事を目指して、

お客様、友人、家人、との交流を深めて行きたいと思って居ります。

今後は又新たな出会いも期待して居ります。吐血の時も即手術と云われながら、

こんな事態の時に手術をする事もないでしょう、多忙な先生の手を煩わせず

手術をしないで助かるなら、生きる事を選ぶ方が私らしいと咄嗟に思ったのですが、

戦争でも震災でもつなみでも多くの犠牲者がいらっしゃった中で、

自然法で生きるのなら生きようと思う自分があった事は否めません。

人間とは結構強くなれるものだと思ったものでした。

現実に命を戴いた幸せを有効に使う事が私の使命かも知れないと思います。

若かった時代は多くの欲を持って生きていた時代も確かにありましたが、

震災を経験し、失う物の多い経験をしてから、或る日突然思いました。

何事も今日から開き直りの精神で行こうと。「一つ一つの事に神経を

使っていては幾つ命があっても足りないよ!」ともう一人の私が

今まで思いもよらなかった事を囁きました。

それまでの四角四面の性格をどこかで切り捨ててしまいなさいと言う

命令を自分の中で消化する事からの出発でした。

10数年前のママの写真を見ると、何と若かった事か !?

自分ながら本当に髪が白くなり、角が取れて優しくなったと思います。

2005年は躍進の年だと念じてもう少しおしゃれごころを想い出しつつ

お店も少し模様替えをして、12月のびーふらっと泉佐野移転10周年

目指して新たな出発をと考えて居ります。

トータル20年間培って来た、すき焼きのびーふらっと として、美味しい!

と云って頂けるお客様の言葉を喜びにして、

すき焼き作りに精を出す所存で居ります。

大きな大きな心の傷を抱えながら生きていらっしゃる方々の心が

少しでも晴れる日が訪れる事を願って居ります。

1月9日、86歳になった母は震災後、私の都合で戦前から住み慣れた豊中から

泉佐野へ移動してもらった直後、友達から離れてしまった寂しさから

心が乱れ要介護になってしまいました。人間のもろさも見ました。

もし、ふるさとに住まれているお客様のご両親がいらっしゃいましたら、

住み慣れた所にいさせてあげて下さい。ママみたいな事はなさらないで下さい。

本当に母には申し訳ない気持でいっぱいです。

今母は何を思って生きているのでしょう。

若い頃にしていた書道を想い出して書いてもらっていますが、

署名は母が育った時の性に戻っています。

そして「お父さん・お母さんに会いたいの」と私に訴えます。

「赤ちゃんが泣いているから見てあげて下さい」を繰返しています。

母の事を書くのは辛いですが、ママと同じ境遇の方がいらっしゃったら、

お話しましょう。

後悔の念に駆られながら、厳しかった母の口から私の言葉に「はい」の返事が

返って来た時の私のショックはいまだに癒えませんが

、「おばあちゃん!」と私が呼ぶとニッコリ笑ってくれるのがせめてもの慰みです。

皇室アルバムカレンダーを犬鳴山不動尊大僧正から戴き、母の傍に置いて

ありますが、とても喜んで天皇陛下に向かっていつも手を合わせています。

精一杯生きて欲しいと願って居ります。命のある事が最大の幸福だと痛感する

日々でもあります。

美味しいすき焼きを1度お試し下さい。世界一美味しいと自負するびーふらっとの

すき焼きです。そしてお話をしたいと思います。

いつも誰かお話し相手は大勢居ります。すき焼きやさんですが、

意見を戦わせる場面も多く見られます。

すき焼きやさんらしくないお店だと思いますが、リビングみたいにくつろぐ事が

出来るお店だと思って居ります。

刻々と時間が迫って来ます。現在時計の針は2時28分を指しています。

動悸が激しくなり、落ち着こうと思って居るのですが、どうしても体が浮いています。

家族は皆無事だったのですが、友人知人が命を落とし、10年間どうしても神戸に

向かって行けませんでした。

今年になって1月11日仕事でどうしても行かなければならなくて、

2人の娘と一緒に三宮まで震災から初めてやっと行きました。

生田神社の鳥居も社もすっかり新しくなって再生され、

丁度成人式とあって賑わっていて何事も

無かったかのように昔通りの姿を見せていました。

帰途は阪急電車に乗って梅田まで出ましたが、当時の事を想い出し思わず

涙が溢れ、亡き人々に手を合わせていました。

改めて6433人の方々のご冥福をお祈り致します。

様々なエピソードはまだまだお話をする気にはなれません。

もう少し時間が必要です。

世界のどこかで起こるであろう天災に対する知識を少しでも多く念頭に入れ、

その時に備える事が必須です。

1つ云える事は、底厚のブーツを準備しておく事、懐中電灯・水・厚手の帽子・

チョコレート・タオル・雨具・携帯ラジオ・ホカロン をリュックに準備しておく事を

お奨めします。厚手登山用スラックス・小銭(公衆電話用)

携帯電話をあまり頼りにしない方が懸命ですが、必ず充電器と一緒に

防水ジッパー付ナイロン袋携帯、電気・ガス・水道が不通になる事を前提に

考える事、(冬)  本当に寒いです。

暖房が無い寒さは昔、子供の頃に経験した寒さ・冷たさが身に沁みる 水の中に

居るのと同然の状態です。

就寝の際は必ずいざと言う時の為に外に出る時の準備を枕元にしておいて下さい。

厚手の上着と帽子とブーツ・軍手を必ず身につけて下さい。

足底・ 脚に怪我をすると動けなくなります。

当たり前の事ばかりですが、必ず準備をしておいて下さい。

心の準備は行動が伴います。

特に子供達にしっかりと心得の心を植え付ける事が大切です。

親の言う事をしっかり受け止める習慣をつける良い機会です。

先生方も子供達に身支度の習慣をつけさせる教材になさって家族が一丸に

なる対話の必須材料だと思います。

津波については昔からの言い伝え・格言を守ったから人の命が救われた

小さな島の人達が居ました。

100年前に今回と同じような津波が起こったそうです。その島に100歳まで

生きた長老が子・孫・ひ孫の代までの全員に言って聞かせたそうです。

「地震の後、引き潮なったらすぐ高い所へ登りなさい!」この言葉が

その小さな島の人口の殆どが助かったそうです。

さしずめ私は地震の後、ニュースに留意して津波警報が出ると同時に、

何処に登るか幾つかの候補場所を頭にイメージしておきます。

日頃は海あり山ありで空気も良く、暖かくて住み易い環境が気に入って

住んでいる現住所ですから、地震・津波に備えて安全な山に住もうとは

考えにくいでしょう。

山に住んでいてもたまたま海に近い所に居る時に、又乗り物に乗って

いるかも知れません。

これは人間の持ち合わせる運命がそうさせると思います。

その時にならないとどんな運命が待っているか誰も予測は出来ません。

阪神大震災でも多くのドラマがありました。余りニュースにはならなかったり

人にも知られないで終って居る事、人知れず10年経った今も幾多の問題を

抱えながら生きている人々が大勢存在します。まだまだ終っていません。

日本全国に渡って襲った数々の災害には自然災害になっていますが、

人災だと言える災害被害も数多くあります。

現在では内外の災害により、国がするべき仕事が山積して居ます。

こんな事を言っている間も明日どうしようと思っている切迫した悩みを持つ

被害を受けた人々がいらっしゃる事が目に見えます。

実際10年前の私がそうでした。豊中・池田はニュースにもならないで

阪神・淡路がクローズアップされていました。

役所でも切実な市民の悩みが犬の遠吠えの如くだったのでしょう。

被害者に対するお見舞いとして3年後に毛布一枚・お鍋が何処を

どう回っていたのか、遠回りをして届けられました。

地震直後に一番必要だった物が忘れた頃にやって来ました。

あまりの事に怒りの表現のし様も無かったのを想い出します。

伊丹空港のそばに第一パンの伊丹空港工場がありました。

その朝も早朝神戸方面に配達に行った車と連絡が取れないと

当時の工場長だった方から、神戸方面の事情が解らずどうしようと

ごちゃごちゃになった店に来られて、非常に心配をされていました。

心配する事もなく、機転を利かせた運転手さんが配達は出来なかった

けれど、想像も付かないひどい状況の中で、食料が不足する事を

予測して西宮市役所へトラック一杯分のパンを届けたそうです。

然しそのパンはとうとう避難している人達の口には入らなかったそうです。

配る役割を果たすべき人達も被災されていたのです。

パニックになっていた現場の状況が目に浮かぶようです。

然し、避難していた人達はそこにパンが

山積みにされていたにも拘らず、家族何人かにパンがひとつと言った状況でした。

地震の揺れが止まった時、一番最初に頭に浮かんだ事、10年経った今もはっきり記憶に

残っている事走馬灯の如く想い出されます。

皆様にお送りさせて頂いたハガキの内容を把握して少しづつ準備して下さい。

パン一つ・水・ティッシュ・ETCの必要性を痛感します。

日頃からポケット・かばんの中に何か忍ばせておいて下さい。

今、びーふらっとで軍手を用意しております。水と一緒にお持ち帰り下さい。

セットになっているものもあります。必要なものを少しづつ集めて居ます。

自宅も家具が倒れて来ない様に天井/壁に留めて下さい。

ゼリー状のものは効き目はありません。

寝室には背の高い家具は置かない、必ず支えになるものを置く、

そして住まい自体の耐震性を調べてもらう事が大切です。

今日来店された在・泉佐野のお客様がリクエストがあれば

何時でも出向いて下さるそうです。

必要な方はお申し出下さい。少しでも安心出来る状態にする事です。

 

必須準備品

飲料水/食/食べ物/手足をけがから守れる物/帽子/耐寒用衣服/

軍手/手袋/タオル/懐中電灯/携帯ラジオ/テレフォンカード/子供用食料

暖房用品・衣服/ジッパー付ナイロン袋/

まだまだ注意事項があります。

1つ追加です。車のジャッキ数個(玄関の入口)に

おいて下さい。

いろいろ必携品ママに教えて下さい。

 

戻る